第152回 Five Years

2021.4.30
いしだのおじさんの田園都市生活

ズッキーニに実がついた。
イチバンカ(一番果)という。
早い。
このイチバンカは、木(株本体)を大きくするために摘果すると良い。
と、言われている。
つまり、大きくなる前に早々に取り除くということだ。
が、なんだか、もったいなくて、、、
でも、生でも食べられるから小さな実をかじるのもいいかもしれない。
そうだ、Rくんに食べてもらおうか。
Rくんは、このズッキーニの種まきをした3歳の子。
種まきを準備していた3月中旬のある日にたまたま母子で畑に寄ってくれた。
「種まき、してみますか?」とお誘いした。
ズッキーニは、カボチャの仲間だから種が大きい。
3歳児でも扱える。
ちょうど利用者Mさんがビニールマルチに植穴を開けたところだった。
それで、お母さんと一緒に1列30メートル弱、20か所ほどをまいてもらった。
そこに、Mさんと私でホットキャップを被せ、サンサンネットでトンネル。
コンビニの冷たい麺の容器をデカくしたようなホットキャップは、加温と苗の保護。
レースのような被覆資材のサンサンネットも苗を護る。
発芽を確認したのが3月22日、イチバンカ確認が4月23日。

ズッキーニの後には、他のカボチャ類(ウリ科)もずいぶんまいた。
ミニカボチャ系を中心に、10種類ほど全部で50株以上。
どれも、直播きホットキャップ作戦だ。
以前は、ベニヤとアクリル板で作った冷床で苗を育てていた。
だが、交替勤務で休日もある福祉労働者の素人育苗はあまり上手くいかない。
プロ農家はビニールハウスの中にトンネルや温床を作り、育苗する。
春の気温の乱高下に対応し、細目に加温したり、ハウスやトンネルを開け閉めする。
小さな苗を育てるのは、まさに赤子を育てるようなものだ。
我々にはなかなかそこまでできない。
それでも、ウリ科やマメ科など苗から育てやすい野菜はあるのでチャレンジはしていた。
しかし、手間をかけてもイマヒトツ、いい苗にならない。
それを植え付けても貧相な作物になってしまうことが多かった。
それならいっそ直播きで、と切り替えて、3年ほど前から今の作戦になった。
この作戦はおおむね成功している。
今年は、特に、ホットキャップをいつ外すか悩んだ。
生長が順調だったが、その分まだ早春で、外はまだまだ朝晩が寒かったから。
また、もっと心配なのは、ウリバエだ。
蠅ではなく甲虫で、ウリハムシが正式名。
こいつが、まさに、たかる、という感じで、葉を食害してひどいと苗は枯れてしまう。
なので、キャップとネットのダブルで守っているのだが、いつかは外さねばならない。
赤子だった苗が健康で大人に近づいてくれば、少々ウリバエが来ても大丈夫。
悩んでいるうちに、伸びた葉がキャップに当たって折れてしまったところもあった。
それでもほぼ順調に育ったズッキーニにイチバンカが着いたわけだ。

(コラムは、数日かけて書くので、この間、時間が経っている)

と、昨日、Rくん母子が畑に寄ってくれて、イチバンカをプレゼントできた。
Rくん、少し舌足らずだけど「ズッキーニ」と声に出してくれて、可愛かった。
お母さんからは調理法を尋ねられ、いくつか紹介した。
他の子たちにもプレゼントした。
その場でかじる子もいた。
まだ5㎝ほどの実は硬く、かじるにも力がいる様子だった。

ズッキーニは支柱を立てて仕立てて栽培する人もいる。
我が社では、例年その手間をかけられず、のたくらせている。
今年はどうしようか?
他のカボチャ類もそこそこ順調に生長しており、この間、いろいろ対応できている。
まず、有機物マルチ作戦。
昨年の駐車場除草の草などを積んでおいたものを地面に敷いた。
畑の周囲の草も併せて刈っては運んで敷いているが、こういうのを「刈敷き」と言う。
ゴミを畑にまいているようでカッコ悪いのだが、これ、いろいろ意味がある。
雑草の抑制、有機物の分解による養分供給、保温保湿、生物多様性などなど。
草を抑えて手間が削減できるというのがイチバンだと思っている。
田んぼの藁をとっておいたものもあわせて使う。
カボチャのつるが伸びてくれば、ベッドの役割も果たす、その姿が楽しみ。

さて、ここまでは、今回のコラムの前置きで、
もともと、書こうと思っていた本題はまたチガウことで、、、

「5年、5年、残されているのは5年」
デヴィッドボウイはそう歌っていた。
1972年のアルバム「ジギースターダスト」の最初の曲。
「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」

(環境破壊、資源枯渇により)地球はあと5年で消滅する。
と、歌っているのだが、最近、私の頭の中にこの歌がリフレインしている。

ちなみにボウイには、オーウェルの小説にインスパイアされた「1984」もある。(1974年)
全体主義国家が人々を管理するデストピアを描いているが、これがまた今に通じている。

地球やこの社会も心配だが、私は自分自身の5年後を考える。
・・・

人生とは何かを獲得していくこと、と、
若いころは思っていたが。
実は何かを失っていくこと。
そう考えるのが、歳を取ったということ、かも。
失うことにうろたえながら、
そこで新しい自分に出会う、
それが人生なのかもしれない。
(最近見た映画の中の科白)

まぁ、ネガティヴな本題を書こうと思いながら、逆に日常の楽しいことを思い出したら、
ケッコウ楽しくて、どんどん書けたので、本題は、また、いつか、どこかで、、、

(5月末の三鷹雑学大学の講師、、、受講者、どうなったかなぁ、、、:石田周一)

いしだのおじさんの田園都市生活